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【第18回】 酒井重嘉さん(昭和41年・経済学部卒) 今井幸雄さん(昭和41年・理学部卒) 第18支部会員紹介 詳細 【第17回】 西岡睦夫さん(昭和33年・経済学部卒) 朝山正美さん(昭和44年・経済学部卒) 第17回支部会員紹介 詳細 【第16回】 霜田良三さん(昭和44年・経済学部卒) 小宮宏輝さん(平成28年・総合政策学部卒) 第16回支部会員紹介 詳細 【第15回】≪昭和卒グループ≫ 中村正昭さん(昭和43年・経済学部卒) 終戦間際、疎開先の京都で生まれ、幼少の頃、小田原から高槻へ移る。 大学ではユースホステル部に所属し、部活の為に色んなアルバイトに励む。毎日新聞社の社会福祉事業団で歳末助け合い市の手伝いを2年間。おかげで必須科目を沢山残して、いまだに落第の夢をみる。卒業式が終わり、全学連が授業料値上げに反対し院長室を占拠。ゼミの小宮先生を助けるべく院長室に乗り込んだ。 高槻に住んでいた事もあり、湯浅電池(現GSユアサ)に入社。同期の大卒事務職15名の中に関学から7名でびっくり。本社経理部門に配属され、伝票式会計の原価計算では算盤の練習から始める。経理部門から東京支社の企画部門に転勤になり、この時、同窓の神保さん(S38卒)、石本さん(S42卒)と一緒になる。 学生時代、英語が苦手で配属先は経理を希望したのだが、英国ウェールズにある生産子会社へ転勤となる。経理システムの改善が仕事であったので、短期間のつもりでいたが、6年半の単身生活を送る事になる。ゴルフは年に200ポンド支払うだけで、いつでも、一人でも、ラウンド出来た。サマーシャットダウンには家内を呼んで、欧州旅行を楽しんだ。後半の3年間は社長を勤め、欧州販売会社も管理しながら増産に努める。チャールズ皇太子を迎えての新工場の開所式やエリザベス女王表彰輸出貢献賞を受賞した事が良き思い出である。 帰任は小田原工場で、以降20年以上茅ヶ崎に住んでいる。東京支社と行ったり来たりで、事務屋では珍しい工場長を経験する。工場統廃合や早期退職等の合理化を進めて来たが、日本電池との経営統合を迎える。統合後も新会社に残り、京都駅の近くで6年近く単身生活を送る。食の面では外国より楽だったが、週末は茅ヶ崎で過ごす。 退職後はメタボ対策の為に茅ヶ崎海岸のウォーキングとゴルフ、ボケ防止と暇つぶしにパズル数独(ナンバープレース) を楽しむ。神奈川を楽しむ会に参加するのも楽しみである。 |
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【第14回】≪昭和卒グループ≫ 神保徳三郎さん(昭和38年・法学部卒) 友との “上ヶ原” 昭和34年、高校での親友 石原隆哉、溝口 彬両君と私の三人が揃って法学部に入学。姫路発6:25の「快速鳥羽行」で三ノ宮へ、阪急に乗り換えて片道2時間半、あの頃の景色が甦ります。 溝口君と私は政治学科、部活は「政研」へ。町内会長の政治意識調査や纏めの合宿、また夏の高野山では足立先生の原書講読会、それは読解力の無さを思い知らされた時でもありました。 因みに石原君は法律学科、部活は「法研」と別行動も多かったのですが、何かあれば誘い合う仲間でした。 昭和38年卒業、私は電池会社、彼らは商社、化学会社とそれぞれの道へ。高度経済成長、石油ショック、バブル、そして失われた10年を駆け抜けてきた世代ですが、一昨年末に石原君が他界、ポッカリと穴があいたようです。残る二人が会えば、「次の番はどっち?」という冗談も。 関学・上ヶ原では「学び・友・時に寛ぎ」を、そして神奈川支部、KG神奈川を楽しむ会では、「親交」と「遊歩」の機会をいただき感謝です。
関学大学の卒業生だった父の影響もあり、関学中学を受験し縁あって入学して以来、10年間、大変お世話になりました。夏の暑い日も、冬の寒い日も、甲山を眺めながら、仁川の川沿いを歩いて通学していたことを、懐かしく思い出します。
大学に入ってからは、ますます自由な行動に出るようになり、休みになるたびに、親にも行先を告げず、車やバイクで日本全国を周るようになりました。沖縄県以外、全都道府県を走破し、各地の名産を食べまわったのは良い思い出です。 |
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【第13回】≪昭和卒グループ≫ 石本泰三さん(昭和42年・経済学部卒) 来年2017年は年男で卒後50年を迎えます。 関学中学部に入学したのは1957年ですので来年は卒後60年になります。兄2人が中学から関学に入っていましたので、小学生のころから親に連れられて、運動会や記念祭を見に行っていました。 中学には伊丹市立南小学校から7人合格しました。内2人が後に理工学部の教授になりました。兄2人はアメリカンフットボウルや硬式テニス・ワンゲルで活躍しました。私は中学2年生から高校まで硬式テニスをやりましたが試合ではすぐに負け、同期生に強い人(高校国体個人準優勝)がおり、彼の応援ばかりしていた思い出があります。 大学では私の腕前では通用しないし、でも体育会には入りたくて自動車部を選びました。3年生からマネージャーをやり、ラリーの計算係で大会に出場しました。全日本学生ラリーでは浜松~新潟~仙台~東京までの3区間で私は新潟~仙台の区間を担当しました。東京の大学はオリンピックで使用したブルーバードが払い下げられており、私達は1960年式プリンスで出場し、最初から車の性能差で勝負がついていたと思います。 大学を卒業してバッテリー会社に就職し、すぐに小田原に赴任しました。その後、小田原と東京間を2往復半し、工場と営業の仕事をいろいろと経験させてもらいました。海老名に家を求めていましたので、子供達は結婚するまで一度も家を離れることはなく、長男は今も家を建て替えて住んでくれています。 54才の時,義兄の社長が亡くなり、義父の要請で家業(酒の王冠の製造・販売)を手伝うため、退職しました。妻の実家に入り、妻は両親の世話をし、会社では私が義父の面倒を見ました。60才の時、事情により、少し早すぎましたが退職し海老名に戻りました。 その後、勤めに出ることなく、予定のない平日は新聞や株価を閲覧し、午後はゴルフの練習に行きます。息子の嫁の父親達にメンバーになってもらって、大相模で1回/月プレイをしています。チェックメイトでも中村正昭さんと毎月例会で一緒にプレイをしています。 ゴルフ以外変化のない生活を過ごしている私にとって「神奈川楽しむ会」に参加できるのは嬉しいです。世話役の方にはいつも感謝しながら、初めての場所に行くのを楽しみにしております。 家族のことですが、妻の実家は私の実家と500メートルも離れていませんが、見合い結婚です。妻は近所に友達も多く、ソフトバレー、太極拳、お茶、コーラス、洋裁・手芸等器用にこなしています。息子2人も結婚し、男の孫2人は水泳、女の孫2人はピアノで頑張っています。私もゴルフができるだけ長く続けられるように頑張りたいと思っています。 神保 徳三郎さん(昭和38年・法学部卒)元会社の先輩です。 高等部テニス部:筆者は左から2人目 息子の嫁の親族と:筆者は左から2人目 【第13回】≪平成卒グループ≫ 若林孝太郎さん(平成6年・法学部卒) 生まれも育ちも阪急今津線沿線の私は、受験するにあたり見学に行った中学部の雰囲気が一番好きになり、志望校を変更し何とか合格をいただきました。以降、大学を卒業するまでの10年間お世話になりました。
「嗚呼実に我が母校」です。 中学部では主に図書部に所属、高等部では器械体操部に(幽霊部員として)所属し、大学では体育会弓道部に所属しておりました。弓道部では副務、主務を務めさせていただき、体育会や他大学の弓道部幹部の方々とのご縁を沢山いただきました。今も宝です。
卒業後は、さくら銀行(現三井住友銀行)に入行し、横浜は日吉の寮に入寮しました。それからずっと横浜市民です。銀行では支店を2つ、本部を1つ、12年2か月勤務し、転職後は財務や人事総務といった管理部門を主業務として数社経験してきました。単身赴任で大阪や海外での勤務がありましたが、単身赴任先でも、関学の同窓の先輩後輩、特に同期に数多く助けられてきました。
今でも関西に帰る際は時間があれば上ヶ原へ赴き、変化に驚きつつ、懐かしさを感じながら気持ちを新たにしています。社会人もちょうど折り返し地点です。これからもKGOBとして皆さまに助けられながら、皆さまの助けとなれるよう頑張ってまいります。よろしくお願い申し上げます。 |
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【第12回】≪昭和卒グループ≫ 本庄義則さん(昭和45年・経済学部卒)
鳥取県の山奥の村で小学校から高校まで過ごし、小学校までは徒歩40~50分の距離、各学年1クラスしかない田舎の学校でした。小学校時代、夏休み・冬休みは町の学校より短く、代りに田植休み・稲刈休み・旧正月休みがあるのどかな村?(時代?)でしたが、今思うと小学生も貴重な働き手だったのでしょう。 田舎出身なので関学に合格すると下宿探し。大学から紹介された物件の中から、仁川百合野町の一番奥に新しくできた「聚楽荘」という学生アパートに入居。入居者20人は全員1年生、すぐに仲良くなり共同生活のような楽しい学生生活が始まりました。 卒業後40年の2010年、聚楽荘同期生会をやろうと思いたち、同窓会本部の協力もいただき各人に連絡をしたところ、住所不明の2名・亡くなった1名を除き北は岩手県から・西は福岡県から全員が集まり盛大に同期生会を開催、その後も定期的に集まり学生時代の話で盛り上がっています。 学生時代は自動車部の活動・聚楽荘での生活・留年しない程度の勉強の4年間で、自動車部では北海道や九州に遠征し、特に3年生の時の北海道遠征は関学を出発し帰着するまで24日間・5,500kmの長征でした。 就職は学校推薦が不要な会社のみを受け、大手小売業に入社。大阪の会社に就職したつもりが15年目に本社が東京に移転し、その時から横浜の住人です。会社では主に家庭用品の仕入れを担当し国内各地の産地に出張、産地の海外移転とともに年に1~2回は東アジア・東南アジアにも出張しました。
63歳少し前に退職し、特に何をしようと決めてはいなかったのですが、1年目に東海道五十三次の旅をして延べ26日間で約500kmを踏破。古い宿場町の風情・険しい石畳の坂道・昔ながらの松並木や一里塚など情緒に溢れる旅でした。現在は日本百名城巡りを楽しんでいて、もうすぐ中間点です。
神奈川支部の活動への参加は落第生ですが、会員紹介コーナへの投稿を機に参加していきたいと思います。
⇒次回リレー 父が当時関学商学部の教授をしていたこともあり、小学生のころからずっと関学に憧れていました。夢にまで見た関学に中学から入学し、中高大と10年間お世話になりました。 学生時代はバブル経済の末期(就職氷河期の入り頃)で、テニスサークルASHに所属し、どちらかと言えばテニスの練習や試合、テニスインストラクターのアルバイトに明け暮れる日々でした。 卒業後は大阪本社の素材メーカーに就職し、京都に着任後3年ほどで東京に異動しました。10年余り勤めたあと、いろいろなご縁を経て、会員制のゴルフスクール『渋谷deゴルフ』(現:東京インドアゴルフ株式会社 http://tokyo-indoorgolf.com )を平成22年2月22日午後2時22分22秒に起業しました。 最近は、K.G.TOKYOフェスタ、KGクリスマスなどのイベントや、KG東京マスタリークラブ、KG神奈川テニスサークルの合宿、KGGCゴルフコンペなどでもOBの方々と交流できて、とても嬉しく思っています。
これからもすてきなKGOB・KGOGの方々とご一緒できる機会が持てたらと思っております。
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【第11回】≪昭和卒グループ≫ 中西敏雄さん(昭和48年・経済学部卒) 私の入学した昭和44年は学園闘争の真っ只中で、安田講堂事件のため東大入試もなく、関学の構内も大荒れで、大学が始まったのは7月に入ってからの事でした。 入学前に自動車免許を取った私は車に乗りたくて自動車部に入部しました。しかしながら新入部員が100人近くいて車に乗れるのはせいぜい5分位だったと記憶しています。今では考えられない事ですが、大半の人が免許を取りたくて入部してきたみたいです。早朝からの厳しい(?)練習に耐えて4年間残ったの同期はたった8名でした。関西以西の人が多く、中々同期とも会う機会がありません。4年間遠征で全国を回り、色々な地域を直に見れたのは社会に出てからの大きな財産になりました。 卒業後は石油会社に入社しました。営業部門に従事していた為、転勤も多く全国各地で楽しく働くことができました。時代が良かったといえばそれまでですが、各地のお客様とよく旅行やゴルフに行きました。その中でも最も自慢したいのはセントアンドリュースでのゴルフプレーです。一生に一度行けるかどうかの素晴らしい旅行だったと思っています。 私の勤めた石油業界もここ40年で10数社から3社へと再編が進んでいます。益々厳しくなる状況を見るにつけ良い時代に生きたと感謝している次第です。
生まれてから一度も豊中市を出たことがなかった私が初めて他の市に住み、一人暮らしを始めたのが関学生活のスタートでした。初めて続きの毎日で、ご縁もあって神戸YMCAのボランティア活動に参加することになり、卒業するまで学生時代の大半を子供たちとのキャンプ生活(沼島とスキー)で楽しく歌って踊って過ごしました。
1997年に卒業後三井物産に入社しIT関連の仕事に8年半携わり、その後化学品営業を8年半経験し、現職(総合力推進部)に3年おります。IT関連の仕事では、2001年から海外現地法人への新システム導入リーダーとして、アジア・豪州各地を飛び回って当社における海外のビジネスモデルを広く学ぶ機会を得ました。その後、経営改革推進部で当社全体を改革するプロジェクトに参画しました。
現在は、全社横断組織である総合力推進部にて化学品営業で培った新規事業開発の知見を活かして、関係会社を含めた各事業部の成長戦略立案支援をしております。毎日のように新しい事業アイデア創出に取り組んでおりますので、ぜひ先輩方の経験された貴重なお話をお聞かせ戴ければと考えております。今後とも宜しくお願い致します。
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【第10回】≪昭和卒グループ≫ 楢原雄一さん(昭和47年・経済学部卒) 私は岡山県赤磐郡瀬戸町(現在は岡山市東区)に生まれ、高校卒業までそこで過ごしました。まさに日本のインフラが急速に充実された時代で、山陽本線の電化が岡山迄伸びたのが小学校5年、東京オリンピックが中学2年、高校2年の時国道2号線が東から伸びてきて田んぼの真ん中を一直線に造成されて行きました。早速開通したその道を友人と六甲山迄ツ-リング、高校3年の時に新幹線が岡山迄開通しました。そのようにいつも東から新しい物が来ると言う事で、東京は無理でも何とか大学は大阪に行きたいと言う希望が大きくなり親に無理を言って関学に入りました。 あこがれの下宿生活は上ヶ原の農家の方が立てた学生寮、4畳半一間の生活が始まりました。初めて友人と三宮で待ち合わせ。何時の電車に乗る?と言うと「適当に」と冷たい返事。私の田舎では電車は1時間に1本、どこかに出かける時は何時の電車に乗ると言うのが待ち合わせの常識。一人寂しく甲東園から西宮北口に行くと次から次へと電車が来るのに驚いたのが学生生活のスタ-トでした。 入学してしばらくすると学園紛争。ある日突然、徳島大学に入学した高校時代の友人がバイクでやって来て泊めてくれとの事。荷物を見るとヘルメット、どうするのかと聞くと明日関学の占拠の応援というので驚き、一晩だけで出て行ってもらいました。ちなみにこの友人は現在、外科医となっています。 クラブ活動は中学時代から親しんでいたソフトテニスクラブに入部しました。顧問は経済学部の橋本徹先生、学園紛争が激しくなり先生が危険を感じ自宅の蔵書を引っ越しさせたいと言う事で手伝いに行きました。このような縁でゼミは橋本ゼミ、このときの“功労”で何とか卒業できたのでは思っています。 就職は橋本先生推薦の石油会社に入社しました。最初の8年は関西勤務でしたが、以降は関東地区での勤務となり35歳からは横浜市の住人となり今日に至っています。40歳の時、突然英語が必須の部門に異動になり、上司がアメリカ人で20年ぶりに英語漬けの毎日となりました。大して上達はしませんでしたがお陰で、ヨーロッパ、北米、アジアと多くの国に出張する機会に恵まれ見聞を広める事ができました。 62歳で会社を卒業。退職後の交流は会社関係ばかりでしたが、神奈川支部の活動を知りゴルフ、テニス、ミニ講演会、最近は楽しむ会にも参加、大変楽しく過ごさせて頂いています。健康が続く限り参加したいと思っていますので宜しくお願いします。 写真は3年前の米国旅行、ヤンキースアジアムでの大リーグ観戦の翌日、ワシントンDCのホワイトハウス前の土産物店で撮ったものです。演台は大統領の使用するものを真似ているそうです。 ⇒次回リレー 中西敏雄さん(昭和48年・経済学部卒)会社の同僚です。 ワシントンDCのホワイトハウス前にて
生まれも育ちも横浜でしたが、受験期に関学の存在を知り、当時の自分にとって未知だった関西文化、神戸や大阪・京都という日本の誇る歴史的な都市、美しいキャンパス、歴史ある心理学科、多くの分野でご活躍されている諸先輩方など、様々な要素に惹かれて関学に入学致しました。
文学部総合心理科学科に合格した2006年2月、今は亡き父と初めて足を踏み入れた関学のキャンパスで体育会馬術部の看板を見つけ、木洩れ日の中で蹄洗場に佇む芦毛の馬を見て馬術部入部を即決した瞬間を、昨日のことの様に思い出します。体育会馬術部では、当時30〜40名の部員と約20頭の馬匹と共に活動し、4回生時には主将を務めさせて頂きました。また、2009年の全日本学生馬術大会では総合馬術競技の選手として出場しました。
学業面では、松見淳子先生(臨床心理学、比較文化心理学)のゼミで、応用行動分析、対人支援におけるアプローチ方法等を学んでおりました。同時に西宮小学校では不定期ながらTA(Teaching Assistant)を経験させて頂き、NPO法人Brainhumanityでは不登校児童の家庭教師等もしておりました。
卒業後は大学院へ進まず横浜に戻り、現在は一人暮らしをしながら都内の半導体製造装置メーカーで働いております。
部活や学科の枠を超え、神奈川支部を通じて更に多くの方々にお会いできる機会を得て、関学が多くの卒業生に愛されている素晴らしい大学だと、改めて心から感じております。最近は、支部の集まりに参加できない日が続いておりますが、皆様お会いした際には是非とも宜しくお願い致します。 |
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【第9回】≪昭和卒グループ≫ 夛田桂三さん(昭和42年・商学部卒) 私は関学のおひざ元、西宮で生まれて卒業就職で横浜に住むまでの22年間を過ごした。それから早や半世紀。あの阪神大震災の影響もあり、すっかり様変わりした故郷の西宮。 思い出をあえてあげれば、夙川の風景である。小学校のころ、日曜日ごとに夙川カソリック教会の礼拝に通い、その後皆で川遊び、神父さんに抱かれ、はにかむセピアの写真。毎日毎日バスケ鍛錬で堤を駆けた高校時代。桜と青松の並木をバイクで上ヶ原へ通った道。また青春の日、友達以上恋人未満の彼女との夕暮れのそぞろ歩き。遠い過去だ。 子供の頃抱いていた関学のイメージは頭もよく、かっこいい坊ちゃん学校。町工場で父が働く私には全く無縁の存在だった。自分が関学生になるなんて夢にも考えなかった。家庭事情を鑑み道具や物の要らないクラブを探し、歴史の浅い規模も小さかったユネスコに入会。今は世界遺産登録などで脚光を浴びているが、当時は世間的にはあまり目立たぬ存在だった。私の間尺にあったのか、昼休みの英語フリートーク、夏休みの合宿等平凡だが楽しい学生生活を過ごせた。 母校通信等でクレセント・ファミリーが登場される。親兄弟、子女が関学で学ばれた・・・ 我が家もまたある意味でクレセント・ファミリーである。妻とその両親、義姉、二人の娘も皆同じく月のマークの社章をつけた。学びの4年と働きの36年の差はあっても二つのクレセントの環で「きょういく」「きょうよう」がある。 関学や会社のOB会の様々な行事でカレンダーが埋まって行く。役員幹事の皆さまに感謝しつつ楽しく参加させて戴いている今がある。
学生時代は桑原秀史ゼミに所属し金融論やマーケティングについて学びました。投資に興味があったため、在学中にAFPの資格を取得しました。現在は空き時間を活用してCFP資格にも挑戦したいと考えております。 祖父の影響から日本刀が好きで、趣味は剣道、居合道です。休日は刀剣博物館へ鑑賞に行くこともあります。
卒業後は三井不動産リアルティ(株)に就職し、東京の駐車場部門に配属となりました。施設に付帯する駐車場の開設・運営の仕事に携わっております。 慣れない東京生活に戸惑いもありましたが、はや1年が経ち、段々と仕事が面白く感じられるようになってきました。
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【第8回】≪昭和卒グループ≫ 野口裕さん(昭和41年・商学部卒) ~楽しみ(宝)は学生時代の友人、貴重な経験は二度の倒産劇~ 以上の各学校での同期会は原則毎年大阪で行っています。また中学校同期(120人)の関東在住者(25人)の世話役は、5年前から小生が担当しており、全員が参加の時をもってバトンタッチをすることにしています。 以上の如く社会人での旧友は勿論ですが、学生時代の友人, 巡り合えたのは仕事をリタイアーしてからですが「神奈川を楽しむ会」の皆様・「神奈川テニスサークル」諸氏に大いに感謝している次第です。 ⇒次回リレー 夛田桂三さん(昭和42年・商学部卒)
理学部卒の父親に続き、親子2世代で関学でお世話になりました。 学生時代は春井久志ゼミに所属し、国際金融論を学びました。 卒業後は大日本印刷株式会社に就職し、4年後に東京へ異動となり、 これからもどうぞよろしくお願い致します。 ⇒次回リレー 竹田祐希さん(平成27年・経済学部卒) |
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【第7回】≪昭和卒グループ≫ 林正和さん(昭和45年・社会学部卒) 早いもので、思い出多き関西学院を巣立って46年が経とうとしています。私は昭和22年4月9日福岡県北九州市門司で生まれ、頭のどこかで九州男児としての誇りを持ちつつ団塊の世代真っただ中で育ってきました。 ⇒次回リレー 野口 裕さん(昭和41年・商学部卒)
田地(タジ)と申します。簡単な漢字ですがシャチハタは特注です。 卒業後は地元に戻り、婦人服アパレルの営業をしていましたが、結婚を機に転職し、現在は生命保険会社の開発部に所属。生命保険のコンサルティング営業をしています。
⇒次回リレー 高木良一さん(平成13年・経済学部卒)
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【第6回】≪昭和卒グループ≫ 水野孝俊さん(昭和57年・商学部卒) 関西学院との出会いは、中学部、高等部(ラグビー部)、大学(ヨット部)と10年間に亘りスポーツ漬けの学生生活を過ごしたことです。 文武両道と言いたいところですが、学業は常に超低空飛行で良き友人と吉田和夫(ゼミ)教授のお陰をもって大学を4年間で卒業することができ、その後、関西で建築・建材の仕事に励み、H12年から東京で新会社設立に加わり、住まいの安全・安心に貢献する仕事を行っております。仕事では若いころから失敗が多く敗者復活戦の連続でありましたが、持ち前の元気で乗り越えて今では、仕事の成否には必ず理由があるとの信念から「それはちゃうやろ」「なんでや」と部下に激を飛ばしながら楽しく仕事をしております。 昨年は、横浜スタジアムでの中学部野球部・全国大会、高等部アメリカン・クリスマスボール、元旦の高等部ラグビー部・花園での久我山戦の応援に参加。 現役のプレーに感動し多くの力をもらいました。今年も関東OBを集めて葉山の海へ出てヨット部現役の応援に力を入れ4年後の東京オリンピックに後輩が出場することを願うばかりです。 神奈川支部では、一番の新参者ですがこれから皆様との交流を楽しみにしております。
大学卒業後は母校とは縁のない生活を送っていましたが、平成18年にシンガポールへ赴任したことをきっかけに、関学とのつながりを取り戻しました。それは現地情報誌を眺めていたある日のこと、突然、関西学院大学同窓会シンガポール支部の文字が飛び込んできたからです。すぐに幹事の方にコンタクトを取ったところ、定期的に食事会を開催しているので次回から参加して欲しいとのことでした。 それが縁となり、現在はビジネス交流会の世話役や、神奈川支部の幹事の一人として微力ながら同窓会活動に携わっております。私が同窓会との出会いを通じてありがたいと感じたことは、同窓の方々がいつでも温かく迎え入れてくれたことです。そろそろ年齢が40を超えた私ですが、今後は一人でも多くの同世代やさらに若い世代の同窓を、温かく迎えられたらいいなと思っています。
写真は卒業式(平成12年)とワシントン出張時に撮ったものです。
⇒次回リレー 田地美紀さん(平成12年・文学部卒)
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【第5回】≪昭和卒グループ≫ 廣野克己さん(昭和36年経済学部卒) 1961年に母校を卒業して直ぐに東京、京橋に父の友人が経営する会社に就職し、東京に来て早や55年経ってしまった。私の人生の3分の2が関東住まいです。 上京当初は同窓会東京支部に所属して清水鷹雄さんと言う三菱重工業の副社長だったと記憶する方が支部長のもと、会計監事という役目でお手伝いさせて頂いて居ました。 私は昭和40年に独立して小さな企業を立上げて居たのですが、その後東京支部から横浜支部が分離、創設される事に為り、私は隣合わせの街なのに上手く往くのかな?と危惧した事もありました。 今日、神奈川を楽しむ会で同窓の老若男女の大変多くの方々にお会いでき、また老境に入った私に毎月のスケジュールを書き込む歓びをお与え下さるのも、神奈川支部の夫々の部門で御奉仕して下さる担当の方々の努力の賜物と心から御礼申し上げます。 高等部、大学とヨット部に所属して、まるでバカの様に練習しました。大学時代、地元、西宮港も含めて2度の全日本大学選手権優勝の経験が何よりの想い出でしょうか。学業もそこそこガンバリましたが・・・。 ヨット部学生諸君が関東への遠征時は葉山か江の島です。最近も結構強豪校です。同窓の皆さまにはその節には応援、観戦してあげて頂けますと何よりも心強いものになるでしょう。 写真は卒業後間もない頃のセーリング姿(西宮沖)、2011年第40回四大学OB戦でKGヨット部OBの面々と撮ったもの(筆者は最前列左)です。 次回はヨット部後輩で現・関東OB会会長の水野孝俊さんにリレーします。 ⇒次回リレー 水野孝俊さん(S57年・商学部卒)
学生時代は岡俊孝先生の「外交史ゼミ」に所属していました。 一方で、結成されて日が浅かった「関西学院討論倶楽部」(現在の文化総部「関西学院ディベートクラブ」)に入り、真剣な討論・ディベートから雑談まで花を咲かせておりました。私はディベートが苦手だったのですが、個性的かつ温かい部員達のおかげで居心地が良かったです。 卒業後はIT系の会社に就職し、東京に赴任しました。10年勤めましたが、縁あって横浜市役所に転職しました。東京から勤務地が変わったことから横浜市民となり、早くも7年が過ぎました。 関学同窓会神奈川支部の存在を知ったのは、2014年秋に届いた支部総会案内の葉書がきっかけでした。勇気を出して参加してみると、先輩方が気さくに接してくださり、「やっぱり関学っていいな」と感じました。 今後も同窓の方々との交流を深めつつ、社会における自分の立場を全うし、「さすがは関学出身」と言われるよう、がんばっていきたいです。 写真は、1999年に棘吐会[いばらかい](旧講演部OB会)と討論倶楽部(現役世代)との間でディベート対決が行われた際、演壇で司会をした私です。 もう1枚は2014年に高千穂に旅行で行ったときのものです。 次回は神奈川支部総会やビジネス交流会を通じて親しくさせていただくようになった梶川さんにリレーします。 |
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【第4回】≪昭和卒グループ≫ 内藤泰夫さん(S36年・商学部卒) 私が同窓会横浜支部(神奈川支部の前身)を尋ねたのは30年近く前、昭和の終わりごろです。それまで勤務していた東京から横浜へ勤務地が変わり、地元の同窓生諸氏との交流を図るべく当時の横浜支部長の長尾霞さん(S14・旧制中学卒)に電話をしたのがきっかけです。早速、野毛の中華料理店で行われた幹事会に呼ばれ、即幹事の一員に加えられた次第。 間もなく金光秀憲支部長(S34年・商卒)に代が変わり、女子同窓会(シオン会)とも統合され、新たにスタートした。総会を盛り上げるべく金光支部長が奔走され、多くの企業からのご提供による豪華な景品が当たる「くじ引き」等、当時の楽しい記憶の一つです。 学生時代はマンドリンクラブに所属し、楽しい4年間を過ごした。写真は大学3年の時、青山学院大学との合同演奏会で上京した際の西山禎一君(右側 S36年・商卒 元同窓会東京副支部長)とのスナップと、2002年関西学院会館オハラホールで行われたマンドリンクラブ昭和36年卒同期会(ケボニト会)で撮ったものです(右端が筆者)。 【第4回】≪平成卒グループ≫ 緑 麻依子さん(H12年・文学部日文科卒) 三日月のマークにときめき、キャンパスの素敵さに一目惚れして受験しました。合格してはじめて、自宅のある滋賀県大津市からは2時間半もかかることに気づいて驚いたのを覚えています。あまり後先のことを考えず、直感で生きてきたんだなと改めて思っています。 その感覚のまま、九州本社のチロルチョコ株式会社に営業職で就職。そこで今の主人と出会い結婚、2年目で寿退社しました。今は、中1・小6・小4の3人の子供の母親として、またこの9月からは日本生命に就職し、人生の第二のステージをスタートしました。やるからには日本一を目指してがんばります。 去年の11月にはじめて神奈川支部の総会に参加し、同窓の方々と交流する機会をいただきました。高木支部長には着付けを習い、長男の卒業式に着物で出席しました。平成卒の先輩メンバーには就職のお祝いをしていただきました。 人との出会い、つながりがほんとに素晴らしいものであると感謝する気持ちでいっぱいです。今後とも、たくさんの人と出会い繋がって人生を楽しみ続けていきたいです。 |
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【第3回】 ≪昭和卒グループ≫ 山野上由美子さん(S37年・文学部英文科卒) 大学を卒業して、はや53年の月日が経ちました。私は、近鉄奈良線の富雄から4回の乗り換えで、約2時間近くかけての通学でしたから、部活動はしておりませんでしたが、青い中央芝生や、時計台に魅せられ、明るくきれいな校舎で学べる幸せを感じる4年間でした。 当時は、現在と違い就職する女子学生は少なく、環境も整っていませんでしたので、私もその年の秋には、ゼミの瀧川元男教授のお世話により、縁あって同窓生の山野上へ永久就職する事となり、現在に至っております。 関西学院との出会い、先生との出会い、そして主人との出会いがあって今の私がございます。この年になりますと、悲しい別れもあるのですが、これからも、神奈川支部の活動にできるだけ参加させて頂き、同窓生との出会い・繋がりを大事に過ごせれば・・と思っていますので、どうぞよろしくお願い致します。 写真は昭和46年文学部卒の高島実さんとのツーショットです。一昨年の総会の出会いで、高島さんが小学校の後輩という事が分かり、ビックリ!! ⇒次回リレー 内藤泰夫さん(S36年商学部卒) |
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【第3回】≪平成卒グループ≫ 来見田(クルミダ)雅也さん(H9年・理学部化学科卒) 簡単に私の経歴を記す。1997年(H9)に理学部化学科(今は名称・形を変えた学科になっているようだが)を卒業。文系華やかな中で色々な意味で「隔離(理)学部」と呼ばれていた。 日常的に病院内の割と奥深くへ出入りしている関係上、薬を通しての医療現場の光と影、様々な人間模様に遭遇する。ここで医療あるあるネタを語るには紙面が少なく割愛するが、普通の人達よりは健康ネタや医療ドラマにツッコミを入れる知識がついたのはこの仕事の役得である。 |
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【第2回】≪昭和卒グループ≫ 田中喜信さん(S33年・経済学部卒) 私が初めて神奈川支部、当時の横浜支部の総会に出席しましたのは、平成元年に剣道部の大先輩・大島良雄氏(昭和18年法卒)から誘われた、横浜中華街での第19回総会の時でした。この総会には30人近くの同窓生が集まって来られ、その中には金光秀憲さん(昭和34年商卒)も夫人同伴で初参加されておりました。 |
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【第2回】≪平成卒グループ≫ 天野海走さん(H11年・神学部卒) 大学を卒業して20年近くが経ちますが、上ヶ原での楽しい思い出は今でも時折思い出します。在学中は、啓明寮で過ごしました。70人の男だらけの生活はむさくるしいものでしたが、寮ならではの濃密な人間関係の中で過ごせたことは良い経験でした。また、神学部は小さな学部だったこともあり、今でも同窓のつながりも強く、様々な場面で助けられることがあります。 |
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【第1回】≪昭和卒グループ≫ 大島良雄さん(S18年・法文学部卒) 1919年東京生まれで96歳です。母校関学は1941年に専門部文学部を卒業、43年10月に法文学部を繰り上げ卒業して兵役に就きました。帰還後サラリーマン生活を経て米国神学校に留学し、54年仙台尚絅学院のチャプレン・教師に就き、60年から関東学院大学のチャプレン・教授として90年まで務めました。退職後は日本に於けるバプテスト派宣教師の研究に従事し、また今も定期的に大学図書館で貴重書の解題の講義をしています。 |
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学生時代は、海の解放感と爽やかな先輩たちに惹かれて、全国制覇を目指す体育会カヌー部に入りました。史学科では学問の深さと難しさに頭をうならされ、教職の授業は熱い思いを抱いて最前列で受け、空きコマは乗艇のため自転車で大学と芦屋浜を往復し、夜には学生会館でアメフトの大きな選手に混ざってトレーニングに励むという、忙しくて熱い(暑苦しい?)学生生活を送っていました。 |
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事務局長 井村 正和 E-Mail:masakazu.i7704@gmail.com 電 話:080-5498-7077 |